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吹奏楽やアンサンブル楽譜の出版を行うムジカ・エテルナ合同会社のブログです。出版作品をちょっと変わった角度から紹介したり、新作の発売情報をいち早くお届けしたりします。演奏会の情報なども告知していきます。

スーザの創作と生涯⑧ ~「強者よ前線へ」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第8弾をお届け致します!

今回のコラムは遂に、最終回でございます。皆様、ご覧頂きましてありがとうございました! 

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして最後に取り上げるのは「強者よ前線へ」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの生涯④:晩年まで

世界一周演奏旅行を行ったスーザバンドであったが、その後、長期間活動を休止する。それは1917年から1920年まで、つまり第一次世界大戦中から戦後にかけてである。

1917年から、スーザは海軍からの依頼により、海軍バンドを訓練することになった。驚くべきことに、この時スーザは300人規模のバンドを構成し、訓練していた。さらにはスーザ自身の申し出によって、彼の月給はたったの1ドルであった。3年間で、海軍バンドを鍛えたスーザは、彼らを率いて、アメリカの様々なイベントに出向き、演奏も積極的に行った。1920年には、一時体の調子を崩したため、海軍を退役。その後すぐにスーザバンドの活動を再開する。スーザはすでに60歳を超えていたにも関わらず、以前にも増して活動を活発化させていった。1932年3月6日、ペンシルヴァニア州吹奏楽団の演奏会に客演するためにリハーサルを行った後、心臓発作を起こし宿泊していたホテルでスーザは息を引き取った。スーザが最後に指揮したのは、アメリカ国民の象徴的な行進曲《星条旗よ永遠なれ》であった。

 

強者よ前線へ

1917年から海軍バンドの訓練に当たったスーザは、そこでもバンドのための行進曲の作曲を行っていた。1918年に作曲された《強者よ前線へ》も、その内のひとつ。海軍バンドの訓練を行っていた時期のスーザの作品は、どれも勇壮な性格を有している。《強者よ前線へ》は、スーザの自筆譜(大譜表)には「ウィスコンシンよ進め永遠に」という題名が付けられていたが、出版された段階では《強者よ前線へ》という題名に変えられている。

 

不思議なことに、《ウィスコンシンよ進め永遠に》という題名の行進曲は1917年に作曲されているが、その自筆譜(大譜表)には「強者よ前線へ」と書かれていたそうである。この入れ替えがなぜ起こったのかという疑問を解決するには、今後のスーザ研究の進展を待つしかない。

 

シンコペーションが印象的な前奏に続いて、勇壮な第1マーチが続く。第1マーチは旋律が裸になることや、旋律とバスとの模倣的な反復など、興味深い点が多い。長年行進曲を書き続けてきたスーザであるが、常に同じレベルに留まるのではなく、より良いものを創り出そうという態度が《強者よ前線へ》の中には見られる。第2マーチは、シンコペーションのリズムを持つ旋律が奏される。それと同時に現れる中音域楽器による対旋律は、2オクターヴにも渡る上行形のアルペジオで作られている。兵どもが前線へと勇敢に躍り出てゆく様が目に浮かぶようだ。その後、優美なトリオと豪快なエピソードを経て、華々しく全体を閉じる。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《強者よ前線へ》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

store.musica-eterna.com

 

ムジカ・エテルナは皆様のコンサート作りを全力で応援いたします!