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吹奏楽やアンサンブル楽譜の出版を行うムジカ・エテルナ合同会社のブログです。出版作品をちょっと変わった角度から紹介したり、新作の発売情報をいち早くお届けしたりします。演奏会の情報なども告知していきます。

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クラリネットアンサンブル「万葉の麗人」が発売開始!

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

お久しぶりの更新となってしまいました。

 

本日は、新作クラリネットアンサンブル曲をご紹介します♪

平野達也先生の「万葉の麗人」が発売となりました!

 

早速ですが、平野達也先生の解説を掲載いたします。

「万葉の麗人」平野達也作曲

「万葉の麗人」とは、万葉の代表歌人額田王(ぬかたのおおきみ)のことを
指します。
・・・あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る、
こんな歌を残した人です。
この人の歌に魅せられて合唱組曲も書きましたが、この八重奏に関してはそこまで直接的には表面化していません。
しかし彼女の歌にある瑞々しさ、馥郁たる調べ、そして時として凛々しく勇ましいところ、そのような多様な表情からインスピレーションを受けたことは確かです。
特に作曲中抱き続けたイメージとしては、立ち姿、彼女の衣服が柔らかく風になびく様、そのような光景がいつも頭の中にありました。
柔らかい彼女の絹の衣服が風に吹かれるまま、なびき続ける様を・・・
この度の出版にあたり大幅に改訂をしました。

またオリジナル編成とは別に、オシア譜も付けました(7BbCls.+1Bcl.)。
このオシア譜もオリジナルから移し替えるだけというインスタントなものではなく、この編成の意味を一から考慮し書き直したものです。オーケストレーションも響きも違いますので、オシア譜はオシア譜でまた別の曲といったほうが適当なのかもしれません。
作曲者としましてはどちらのバージョンもより多くの方に演奏していただけることを願ってやみません。(平野 達也)

 

参考演奏をYou Tube上に公開しておりますので是非お聴きくださいませ♪

youtu.be

 

そして…この曲には作曲者の平野先生のご意向も踏まえまして特典として

「18 世紀の花束I」という平野先生が18 世紀の音楽研究からその途上で出会った4 曲を選んでメドレーにしたものもお付けして出版させていただく運びとなりました!

せっかくですので、こちらの楽曲解説もご覧いただければと思いますので、掲載させていただきます!

「18 世紀の花束I」

この「18 世紀の花束I」は、自身の18 世紀の音楽研究からその途上で出会った4 曲を選んでメドレーにしたものです。
この時代の音楽は他に比して馴染みの薄いものかもしれませんが、その愛らしさ、親しみ易さゆえに、演奏する人聴く人にきっと気に入ってもらえると思います。
アンサンブルコンサートのプログラムに最適かと思います。
第1 曲
ストラヴィンスキーもバレエ「プルチネラ」に用いた曲。長らくペルゴレージの作とされてきたが、今ではガロ(1730-1768?)という人の作と判明しています。
曲は愛らしく静かに始まり、続くTutti ではオブリガート風のきらびやかな楽句も聴かれます。
この優美な旋律を、よく歌って表現してもらえればと思います。
第2 曲
このファッシュ(1688-1758)という作曲家、初めて聞く方が多いと思います。バッハと同時代人。
譜割は見慣れないものですがそのまま使っています。
今は手軽なので参考までに原曲を一度聴き、耳から入るのも手かもしれません。
第3 曲
ペルゴレージ(1710-1736)の当時大変流行った「奥様女中」(1733)というオペラの中の曲。
多少のユーモアを込めて編曲していますので、それが出る演奏を望みます。
第4 曲
ムーレ(1682-1738)のこの楽曲、誰もが聴いたことのあるような親しみ深いメロディー。これこそがこの曲の魅力です。
その旋律をここではコラール風に編曲してあります。転調を経て、きらびやかに、そして高らかに歌い上げて全曲を閉じます(演奏時間:約5 分)。

※この楽曲にもオシア譜を付けていますが(7BbCls.+1Bcl.)、ただ単にオリジナルオクテットの音を移し替えるだけではありません。ですのでオリジナル版とオシア版は、別々の曲と考えていただいた方がよいかと思います。(平野 達也)

 

アンサンブルコンテストでお使いいただいても良し!

演奏会でお使いいただいても良し!

様々な演奏機会に、この2曲が演奏されることを弊社としても願って止みません。

 

商品詳細ページはこちらから!

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スーザの創作と生涯⑧ ~「強者よ前線へ」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第8弾をお届け致します!

今回のコラムは遂に、最終回でございます。皆様、ご覧頂きましてありがとうございました! 

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして最後に取り上げるのは「強者よ前線へ」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの生涯④:晩年まで

世界一周演奏旅行を行ったスーザバンドであったが、その後、長期間活動を休止する。それは1917年から1920年まで、つまり第一次世界大戦中から戦後にかけてである。

1917年から、スーザは海軍からの依頼により、海軍バンドを訓練することになった。驚くべきことに、この時スーザは300人規模のバンドを構成し、訓練していた。さらにはスーザ自身の申し出によって、彼の月給はたったの1ドルであった。3年間で、海軍バンドを鍛えたスーザは、彼らを率いて、アメリカの様々なイベントに出向き、演奏も積極的に行った。1920年には、一時体の調子を崩したため、海軍を退役。その後すぐにスーザバンドの活動を再開する。スーザはすでに60歳を超えていたにも関わらず、以前にも増して活動を活発化させていった。1932年3月6日、ペンシルヴァニア州吹奏楽団の演奏会に客演するためにリハーサルを行った後、心臓発作を起こし宿泊していたホテルでスーザは息を引き取った。スーザが最後に指揮したのは、アメリカ国民の象徴的な行進曲《星条旗よ永遠なれ》であった。

 

強者よ前線へ

1917年から海軍バンドの訓練に当たったスーザは、そこでもバンドのための行進曲の作曲を行っていた。1918年に作曲された《強者よ前線へ》も、その内のひとつ。海軍バンドの訓練を行っていた時期のスーザの作品は、どれも勇壮な性格を有している。《強者よ前線へ》は、スーザの自筆譜(大譜表)には「ウィスコンシンよ進め永遠に」という題名が付けられていたが、出版された段階では《強者よ前線へ》という題名に変えられている。

 

不思議なことに、《ウィスコンシンよ進め永遠に》という題名の行進曲は1917年に作曲されているが、その自筆譜(大譜表)には「強者よ前線へ」と書かれていたそうである。この入れ替えがなぜ起こったのかという疑問を解決するには、今後のスーザ研究の進展を待つしかない。

 

シンコペーションが印象的な前奏に続いて、勇壮な第1マーチが続く。第1マーチは旋律が裸になることや、旋律とバスとの模倣的な反復など、興味深い点が多い。長年行進曲を書き続けてきたスーザであるが、常に同じレベルに留まるのではなく、より良いものを創り出そうという態度が《強者よ前線へ》の中には見られる。第2マーチは、シンコペーションのリズムを持つ旋律が奏される。それと同時に現れる中音域楽器による対旋律は、2オクターヴにも渡る上行形のアルペジオで作られている。兵どもが前線へと勇敢に躍り出てゆく様が目に浮かぶようだ。その後、優美なトリオと豪快なエピソードを経て、華々しく全体を閉じる。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《強者よ前線へ》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

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スーザの創作と生涯⑦ ~「美中の美」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第7弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは「美中の美」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの生涯③:1910年まで

1900年、スーザ率いるスーザバンドは、ついにヨーロッパへの演奏旅行を敢行する。この演奏旅行ではフランス、ドイツ、オランダのいくつかの都市で演奏会が行われ、そのどれもが大成功をおさめた。そして、翌年の1901年には早くも2回目のヨーロッパ演奏旅行が行われた。この2回目の公演では、イギリスで何度かの演奏会を行った。また、その中で、イギリス王室からの直々の依頼により御前演奏も行っている。また1903年にも御前演奏を行い、1904年末から1905年にかけては、4回目のヨーロッパ演奏旅行を行う。この4回目の演奏旅行は規模の大きなもので、イギリス、フランス、スイス、オランダ、ドイツ、オーストリアポーランドチェコデンマーク、さらにはロシアでも演奏会を行っている。そして、1910年には、ヨーロッパのみならず、世界一周演奏旅行を行った。このようにして、スーザとスーザバンドの名は、世界中に知れ渡ったのである。

 

美中の美

スーザとスーザバンドの人気は、もはや音楽家という枠を超え、エンターテインメントとして確立できるほどであった。そのことから、彼らの下には日々様々な演奏の依頼が舞い込んできた。その中には、博覧会でのイベントとしての依頼も少なからず存在した。ボストンの食品協会が毎年主催していた「ボストン食品博覧会」もその内のひとつである。スーザバンドは、この博覧会に数年間、毎年出演し続けた。そんな中、1908年の出演の折に、スーザはこの博覧会のために行進曲を作曲した。それが《美中の美》である。

 

《美中の美》の原題は《The Fairest of the Fair》であるが、この「Fair」には2つの意味がある。ひとつは「博覧会」、そしてもうひとつは「美人」である。つまり、本作の題名は「博覧会の一番の美人」と「美人の中でも最も美人」という2つの意味を持っている。スーザがこのような題名にしたのには、理由がある。

 

すでにボストン食品博覧会での演奏会を何年間か続けていたスーザは、そこで働く、若く美しい女性がいることを知っていた。スーザは、その美しさを《美中の美》の中で描き出したのである。

 

本作の興味深い点は、新しいセクションへ移る際に、必ず前奏の再現を挟んでいる点である。くだんの前奏は、装飾音符を伴う華やかなもの。第1マーチは前奏の付点リズムを使用した躍動感溢れる旋律が魅力的。前奏の再現が行われると第2マーチへ進む。第2マーチは、女性の軽やかな足取りを感じさせるもので、旋律と対旋律の対話が心地よい。またも前奏の再現が行われると、トリオに入る。トリオの旋律は、スーザの行進曲の中でも特に美しいものであろう。最初から1オクターヴもの跳躍でもって開始するトリオの旋律は、その後も七度など、幅広い音程の跳躍が目立つドラマティックなもの。エピソードに含まれる、1拍の総休止は、とても効果的。エピソードの後でも前奏が再現され、トリオが繰り返される。前奏を、行進曲の中に何度も繰り返すことで、全体の統一感が増し、形式的にもとても美しい行進曲に仕上がっている。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《美中の美》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

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スーザの創作と生涯⑥ ~「海を越える握手」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第六弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは「海を越える握手」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの創作態度

行進曲のみならず、多くの作品を作曲し続けたスーザ。そんな彼は、自身の創作について語ることが少なからずあった。例えば、《星条旗よ永遠なれ》について。この曲が誰に影響されて作曲したものなのかを聞かれた際には「神にです」と答えた。また、自叙伝“Marching Along”には次のようなことをスーザは書いている ―『自分こそは作曲家であると考えている作曲家も、天上の神からそのインスピレーションを授かっているのだと信じなければなりません。このことは、私が人生の信条とすることなのです。真の作曲家は神の存在を信じるものなのです』。

このように、スーザは作曲において、まず何よりも神の存在を大切なものとして意識していた。

 

スーザの行進曲を吹奏楽で演奏していると、スーザはフラット系の調を好んでいたように感じるかもしれないが、実際にスーザは、特定の調を好むようなことはなかった。スーザが最も意識していたことは「演奏しやすい」調を選択することであった。そのため、B管やEs管などの楽器が多い吹奏楽のために、スーザはフラット系の調を選択して作品を仕上げたのである。そのため、場合によってはピアノリダクションされているスーザの行進曲の中には、吹奏楽版ではフラット系の調で書かれていたものが、シャープ系の調に移調されているものも存在する。

 

海を越える握手

1898年に勃発したアメリカとスペインの戦争、いわゆる米西戦争は、アメリカの勝利終結を迎えた。この戦争は、ヨーロッパでは賛否両論となっていた。そのことを知ったスーザはある晩、ひとつの言葉に出会う。それは「とある考えが私の心をよぎった ― 永遠の友情を約束しよう」というものだ。この言葉はイギリスの外交官・作家のジョン・フッカム・フレアによるもの。この言葉に何かを感じたスーザは、すぐに新しい行進曲に《海を越える握手》という題名を付けた。1899年のスーザバンドによる初演は大成功で、聴衆が足を踏み鳴らし興奮し続けたため、3度も演奏を行ったと言われている。

 

《海を越える握手》は、F-Durを主調としているが、その独特な和声付けにより、単に明るい雰囲気に終始する行進曲ではなくなっている。

すでに前奏から、F-Durの平行調であるd-Mollのドミナントが示唆され、前奏の最後には、明確なd-Mollのドミナントで半終止する。続く第1マーチはd-Mollのトニックで開始し、すぐにF-Durへ移行する。この調の配置が、《海を越える握手》の、一聴して不思議な雰囲気に影響している。第2マーチは一転してF-Durが支配的 ― しかし、d-Mollの影は確実に存在する。トリオでは、付点リズムが心地よい揺れを生み出す。短調のエピソードを経て、トリオが繰り返される。ピッコロの軽やかな装飾が付点リズムと豊かな対比を描き出す。

 

「とある考えが私の心をよぎった―永遠の友情を約束しよう」という《海を越える握手》の要とも言えるこの美しい言葉は、本作の初版楽譜の表紙にも印刷されている。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《海を越える握手》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

 

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スーザの創作と生涯⑤ ~「星条旗よ永遠なれ」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第五弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは「星条旗よ永遠なれ」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの行進曲の創作

生涯に138曲もの行進曲を作曲したスーザであったが、驚くべきことに基本的には、以下の2つの形式のみを用いて行進曲を作曲し続けた。

 

①前奏 ― 第1マーチ ― 第2マーチ ― トリオ ― エピソード ― トリオ

②前奏 ― 第1マーチ ― 第2マーチ ― トリオ ―(エピソード)― 第3マーチ

 

元々、行進曲は上記の①、②のような形式が「完成されたもの」として、スーザ以前から存在していた。ベートーヴェンマーラーソナタ形式の枠組みを拡張し、ワーグナーがオペラの概念を拡張したように、音楽史に名を残す巨匠たちは、自らの創造性に基づいて、伝統的な枠組みを作り変えていった。しかし、スーザは行進曲の伝統的な形式を破壊することなく、数多くの名作を生み続けたのである。では、スーザは行進曲に対してどのような考えをもっていたのだろうか。その答えは、自叙伝“Marching Along”の中にある ―『行進曲は立派なものでなくてはならない。大理石の彫刻のように完璧であって、無駄があってはいけない。無駄ができてしまったら、それは行進曲とは呼ぶことができない』。

 

行進曲に対して、特別な想いを抱いていたスーザだからこそ、その伝統的な形式を破壊したり、拡張させることなく使用したのである。そしてその中で、スーザにしか書くことのできない ― スーザが言うには「神から与えられた」― 旋律の数々を紡いでいったのである。

 

星条旗よ永遠なれ

1896年の11月、スーザバンドのプロデューサーでもあったスーザの友人、デイヴィッド・ブレイクリーが亡くなった。休暇でイタリアへ旅行していたスーザに、スーザバンドのスタッフが電報を打ったものの、それはスーザの手に渡ることはなく、スーザがブレイクリーの死を知ったのは、彼の亡くなった4日後の新聞記事であったという。

 

スーザは慌てて、帰国の途についた。ニューヨークへと向かう船の中で、スーザは様々なことに想いを巡らせた。亡くなった友人ブレイクリーのこと、彼のいなくなった後のスーザバンドのこと、今後の仕事の行方、そしてアメリカ海兵隊バンドの隊長だった頃に何度も見たホワイトハウスに掲げられた星条旗。そんなスーザの中に、突如として音楽が鳴り響き始め、その音楽はニューヨークに着くまで鳴り止むことはなかった。ニューヨークに到着すると、スーザはこの音楽を五線譜の上に落とし、その後「一音も音符を書き変えることはなかった」。そのようにして完成したのが、世界中で最も愛されている行進曲と言っても過言ではない《星条旗よ永遠なれ》である。

 

星条旗よ永遠なれ》は、スーザの行進曲の中でも規模の大きい行進曲である。《ワシントン・ポスト》や《エル・キャピタン》のように、ユニゾンによる前奏ではなく、和声的な指向性の与えられた前奏が付けられ(最も、1小節目はユニゾンであるが)、第1マーチが続く。第1マーチの豪然たる雰囲気には、バスの動きが強く影響している。本作の第1マーチのバスは、単純な強拍の刻みではなく、躍動しつつ下行してゆくという、スーザの他の行進曲ではあまり見られない特徴的な動きを見せる。続く第2マーチでは、フルートのオクターヴ跳躍が、素朴な旋律を飾る。トリオは一変して穏やかであるが、バスの動きはやはり独特の推進力を持っている。低音楽器群が中心となる猛烈な下降音型と、半音階が鳴り渡るエピソードに続いて、トリオが繰り返される。繰り返されたトリオでは、ピッコロの華麗なオブリガートが。またもエピソードを挟むと、3度目のトリオに進むが、ここではトリオの旋律と、ピッコロのオブリガート、さらにトロンボーンの対旋律(スーザはそれぞれの旋律がアメリカの3つの地域を象徴していると述べている。すなわち、旋律が北部、オブリガートが南部、対旋律が西部である。)が混ざり合い、行進曲ではまず聴くことのできない、荘厳な音響空間を生み出す。

 

現在でこそ、《星条旗よ永遠なれ》という、なんともアメリカ人の愛国心をくすぐる題名が付けられているが、作曲当初は題名がなかった。1897年になってやっと、この輝かしい題名が付けられ、この行進曲自体も「永遠」のものとなったのである。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《星条旗よ永遠なれ》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

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スーザの創作と生涯④ ~「エル・キャピタン」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第四弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは「エル・キャピタン」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの行進曲以外の作品

「行進曲王」として知られるスーザは、やはり行進曲が創作の中心であったことは、疑いようがない。しかし、スーザは、歌曲、行進曲以外の吹奏楽曲、そしてオペレッタなど、行進曲以外にも多くの作品を残している。

 

特にオペレッタに対しては、スーザがヴァイオリン奏者としても活動していた時期から、すでに強い興味を持っていたようだ。特に好んでいたのがアーサー・サリヴァン(1842 - 1900)が台本作家のウィリアム・ギルバートと組んで作り上げたオペレッタであった(スーザは、サリヴァンオペレッタ《ミカド》の旋律に基づく《ミカド・マーチ》を作曲している)。またジャック・オッフェンバック(1819 - 1880)の指揮で演奏した経験もあった。そんな興味や経験を通して、スーザは生涯オペレッタの創作を続けてゆく。スーザのオペレッタサリヴァンオッフェンバック、そしてフランツ・フォン・スッペ(1819 - 1895)やリヒャルト・ワーグナー(1813 - 1883)の影響が感じられるものの、全体的に雰囲気は明るく、行進曲的な楽想があちらこちらに見られる。そのため、自身のオペレッタの中から一部を抜粋し、行進曲として出版された作品もいくつか存在する(《許嫁》や《銃の後に立つ男》など)。スーザのオペレッタ自体は《エル・キャピタン》を除いて、そこまでの人気は出なかったもののオペレッタの中から抜粋された行進曲は人気を博すという不思議な現象も発生した。

 

エル・キャピタン

1896年に初演された3幕から成るオペレッタ《エル・キャピタン》は、ペルーがスペインに占領されていた時代を舞台に、少し気弱なスペイン人の提督ドン・メディグアの周りで引き起こされる様々な問題を、おもしろおかしく物語ってゆき、最後は大団円で終わる喜劇である。

 

《エル・キャピタン》の中には、様々なアリアや重唱、合唱が含まれているが、そのどれもが魅力的な旋律で彩られている。現在《エル・キャピタン》として知られている行進曲は、このオペレッタの中から、スーザ自身がいくつかの曲を抜粋し、構成したものである。

 

短くも力強い前奏に、第1マーチが続く。6/8拍子の第1マーチは第1幕、および第2幕で主人公のドン・メディグアの歌うアリアに基づいている。続く第2マーチも同様。一方、トリオと、それに続く第3マーチは2/4拍子に代わり、第2幕、および第3幕のフィナーレ、つまりオペレッタ全体の最後に奏される曲を用いている。第3幕のフィナーレは、ほとんど全ての出演者が登場し、歌うという、とても華やかな場面。行進曲を書く目的で書かれた行進曲ではなく、オペレッタから抜粋された曲で構成された行進曲のため、《エル・カピタン》では、部分毎に様々な風景を味わうことができる。

 

スーザは《エル・キャピタン》を大変気に入っていたようで、自叙伝“Marching Along”の中で、次のように語っている ―『[エル・キャピタンを]聴いたのは2年前のことであるが、歌詞と音楽は初演時と同様、新鮮味があり素晴らしい旋律に溢れているように思えた。おそらくこの台本は、アメリカで書かれた最高の台本であろう』。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《エル・キャピタン》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

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ムジカ・エテルナは皆様のコンサート作りを全力で応援いたします!

スーザの創作と生涯③ ~「キング・コットン」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第三弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは「キング・コットン」です。

それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザバンドとは

《自由の鐘》の解説の中で、スーザが1892年にスーザバンドを立ち上げたことに触れた。そして、そのスーザバンドは、スーザの名を世界に広めるという大きな役割を果たしたのであるが、そもそもスーザバンドとは一体何なのであろうか。

 

1880年代のスーザは、アメリカ海兵隊バンドの隊長として、充実した生活を送っていた。そんな中でも「自分の指揮に敏感に反応できる優秀な演奏家で組織した、自分の楽団を作る」という夢が、スーザの中に密かにあったことを、スーザは自叙伝“Marching Along”の中で述べている。そして実現したスーザバンドは、まさにスーザの夢の楽団であった。スーザバンドの奏者は、世界中から集められた。スーザバンドは基本的に80人前後で構成されていたようで、演奏会によっては100人規模の吹奏楽になることもあったようである。楽団員同士の仲は良く、また給与は奏者のレベルによって異なるものの、週給74ドルから200ドルであった。4回ものヨーロッパ演奏旅行と、1910年の世界一周演奏旅行を通して、スーザバンドは世界中で名の知れた人気楽団になった。行く先々で熱烈な歓迎を受けたスーザバンドは、音楽史上最も有名で人気を博した吹奏楽団であったと言っても過言ではないだろう。

 

さて、スーザの行進曲は、彼の生前にすでに多数出版されていたが、スーザバンドがスーザの行進曲を演奏する際には、出版されていた楽譜通りに演奏することは決してなかったという。その理由のひとつは、スーザバンドの形態にあった。出版されたスーザの行進曲は、正に「行進するのに」適したオーケストレーションを施したものであったが、スーザバンドは、コンサートバンドの形態を取っていた。そのため、スーザは演奏に際して、声部進行やダイナミクスなどに変更を加え、アクセントなど様々なものを付け加えていたという。

 

キング・コットン

1895年から、スーザはスーザバンドと共にアメリカの各地を巡る演奏旅行を行った。その演奏旅行には、アトランタで行われる国際博覧会(Cotton States and International Exposition)での演奏も含まれた。アトランタのあるジョージア州は、コットンの産地として有名で、この博覧会もジョージア州とその製品の宣伝が目的のひとつであった。

その博覧会の公式行進曲として選ばれたのが、1895年の演奏旅行の合間に作曲された《キング・コットン》である。

 

この博覧会での演奏会では、様々な問題が起こった。博覧会自体が赤字に陥ってしまったため、依頼していたスーザバンドの演奏会を中止してほしいと博覧会の主催者が申し出てきたのである。様々な対案を話し合った結果、スーザバンドは演奏会の入場料を独自に取る形で、演奏会を行うことになった。入場料を取ることになったにも関わらず、演奏会は連日満席で、最終日を迎える頃には、博覧会の主催者が演奏会の継続を願い出るほどであった。

 

一歩ずつ上行してゆく力強い前奏に続き、軽やかな第1マーチが続く。第1マーチの後半楽段は、c-Mollの重みのある音楽で、前楽段との対比がとても良く効いている。第2マーチは、第1マーチと反行する形で旋律が作られている。トリオでは、質の良いコットンのようにやわらかな旋律が流れてゆく。トリオの間に挟まれるエピソードは、第1マーチの後半楽段の影響を受け、短調の翳りが生じる。このように、《キング・コットン》には、無駄のない形式の中で見事な対比が随所に盛り込まれている。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている《キング・コットン》の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

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スーザの創作と生涯② ~「自由の鐘」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、第二弾をお届け致します!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、スーザの創作と生涯。そして今回取り上げるのは随所に散りばめられた鐘が非常に印象的な「自由の鐘」です。それでは、早速詳しく迫ってみましょう!

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの生涯②:1900年まで

1880年代には、スーザの名はアメリカ全土に広がっていた。そして、1890年代には、スーザの名を世界に知らしめることとなる、ひとつの大きな出来事が起こる。1891年と1892年に、スーザはアメリカ海兵隊バンドと共にアメリカ国内の演奏旅行を行った。そして、この時期、スーザは「行進曲王」の名を実際に受けることになる。スーザの自叙伝“Marching Along”によれば、当時のイギリスの吹奏楽雑誌に次のような記事が掲載された ―『スーザは、ワシントンの海兵隊バンドの指揮者としてしか知られていなかったが、ヨハン・シュトラウスがワルツ王と言われるのと同じく、スーザには行進曲王の称号が与えられている』、『今やスーザの音楽は西海岸から東海岸まで、セント・ローレンス川からメキシコ湾まで、アメリカ全土のあらゆる場所で演奏されている。行進曲王はこの国を統治しているのだ!』。

 

今や行進曲王の名を手にしたスーザは、12年間務めたアメリカ海兵隊バンドの隊長を退役し、興行主のデイヴィッド・ブレイクリーと共に、新たに「スーザバンド」を立ち上げた。

 

1892年9月にスーザバンドの初の演奏会が行われるが、演奏会が行われる度、その評判を聞きつけた聴衆が集まり、最終的に大成功を収めることになった。そして、スーザの名は、スーザバンドと共に、世界へと広がってゆくのである。

 

自由の鐘

1893年、スーザは役者のフランシス・ウィルソンの依頼によって、オペレッタ《悪魔の代理人》の作曲に取り掛かっていた。しかし、スーザとウィルソンの間で、作曲代金の話がつかず、《悪魔の代理人》は未完のまま放置されることになった。その未完のオペレッタの中に、ある行進曲が含まれていた。この行進曲こそが、後に《自由の鐘》と呼ばれる行進曲である。

 

《自由の鐘》の題名の由来については、いくつかの説が存在する。まず“Marching Along”によれば、スーザは、宿泊していたホテルで「アメリカ」と書かれた幕に大きな鐘が描かれているのを見た。その直後、妻から送られてきた手紙に、スーザの息子がフィラデルフィアで「自由の鐘」に関係するイベントに参加した、という知らせが書かれており、それら2つの出来事から《自由の鐘》という題名を思いついたというのである。一方、スーザ研究の第一人者であるバイアリーによれば、スーザが友人と共に「アメリカ」というショーを見物した際に、幕間に下りた幕に巨大な鐘が描かれており、それを見た友人が、新しい行進曲の題名は「自由の鐘」が良いと話し、その後受け取った、上述の妻からの手紙が《自由の鐘》の題名の由来であるという。どちらにしろ、妻から手紙を受け取ったことは一致するため、この行進曲の題名は、フィラデルフィアの「自由の鐘」に関係することは確かである。このことからも、スーザ、そして当時のアメリカ国民に根付いていた、強い愛国心の一部を垣間見ることができる。

 

《自由の鐘》も、スーザによく見られる行進曲の形式に則っているが、第1マーチと第2マーチの主部に対して、トリオに多くの時間が割かれているのが特徴的。

 

全楽器のユニゾンによる短い前奏を経て、しっかりとした足取りの第1マーチが開始する。《ワシントン・ポスト》と同じく6/8拍子であるが、音楽の性格は全く異なる。スーザの枯れることのないインスピレーションを感じることができるだろう。第2マーチは、第1マーチに比べて長い音価が中心となる旋律。この第2マーチからトリオの穏やかな旋律が導き出される。なお、本版では編成に含まれていないものの、スーザはスーザバンドとの1925年の演奏の中で、トリオにチャイムを挿入している。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

ムジカ・エテルナから販売されている「自由の鐘」の楽譜はこちらからご購入いただけます♪

フルスコアのみの販売もさせていただいておりますので、是非この機会に選曲の参考にしてみてはいかがでしょうか?

 

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スーザの創作と生涯① ~「ワシントン・ポスト」

こんにちは!ムジカ・エテルナです。

 

ムジカ・エテルナから出版されます

「スーザの名曲マーチ特集」として石原勇太郎氏に執筆を依頼させていただきました

スーザの生涯と創作についてのコラムを、本日より掲載して参ります!

 

この機会に、スーザに対する見聞を少しでも広げていただけましたら幸いでございます。

それでは、第一弾としてスーザの創作と生涯。そして「ワシントン・ポスト」について詳しくみていきましょう!

 

アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザ(1854 – 1932)は、「行進曲王」という二つ名で、世界的に知られている。しかし、彼の生涯と創作活動が(特に日本では)同時に語られることは、ほとんどない。そこで、ムジカ・エテルナ合同会社が販売する、スーザの楽譜の解説として、あまり知られていない、スーザの生涯と創作について取り上げることにしよう。

 

スーザの生涯①:1880年まで

1854年に音楽家であった父の下に生まれたスーザは、幼少から音楽に親しみ、13歳になる頃には、オーケストラで使用されるほとんど全ての楽器と、ピアノが演奏できるほど力を付けていた。

1867年から1874年まで、スーザは父の薦めで、アメリカ海兵隊バンドで音楽的な訓練(特に音楽理論の訓練)を受けた。

その後、スーザはワシントンとフィラデルフィアで指揮者、さらには、興味深いことにヴァイオリン奏者として活動。

それらの活動と同時に、作曲にも力を入れ始めるが、1870年代の時点では、スーザはオペレッタに強い興味を示していた。

そして1880年、スーザはアメリカ海兵隊バンドの隊長に任命され、その活動を通して、傑作と呼ばれる数々の行進曲を生み出していったのである。

 

ワシントン・ポスト

アメリカ海兵隊バンドの隊長として、その演奏レベルを上げただけでなく、見事な作品を書くということで、1880年代には、スーザの名はアメリカ全土で良く知られるようになっていた。

スーザの名声が広がっていた1880年代のアメリカでは、新聞社が購読者の獲得に躍起になっている時期でもあった。そんな中、「ワシントン・ポスト」という新聞社が、小中学生を対象とした作文コンテストを開催することになり、その表彰式で演奏するための行進曲の作曲依頼が、スーザの下に舞い込んだ。その依頼に応える形で作曲されたのが、新聞社と同じ名前を持つ行進曲《ワシントン・ポスト》である。1889年のことであった。

同年に行われた表彰式で、スーザの指揮の下、アメリカ海兵隊バンドによって演奏されると、《ワシントン・ポスト》の評判は、瞬く間に広まった。

さらに、当時流行の兆しを見せていた「ツーステップ・ダンス」の音楽としても取り入れられ、後にヨーロッパではツーステップ・ダンスを「ワシントン・ポスツ」と呼ぶようにまでなったのである。スーザ自身も自叙伝“Marching Along”の中で、《ワシントン・ポスト》に関する様々な逸話を書き残しているように、《ワシントン・ポスト》は、当時からスーザの代表作として、世界中で人気を博したのである。

曲は、スーザの行進曲に典型的な形式を取る(スーザの行進曲の型については《星条旗よ永遠なれ》の解説を参照のこと)。全楽器のユニゾンによる半音階的な前奏に続いて、親しみやすくも厳かさも併せ持つ第1マーチが奏される。木管楽器が主体となって奏する、跳躍の多い旋律の第2マーチを経て、そのままトリオへと繋がる。トリオは第1マーチと第2マーチの性格が結合したもので、その後に現れるエピソードも前奏の影響が見られるなど、全体が統一的な性格でまとめあげられている。《ワシントン・ポスト》は、スーザが好んだ「無駄のないスタイル」で書かれているものの、魅力的な旋律と、それらの統一によって、行進曲という機会音楽的な性格を越えて、見事な音楽作品として成立している。

ワシントン・ポスト》の大成功を目の当たりにしたアメリカの他の新聞社は、いわゆる「社歌」のように、それぞれの会社のための行進曲を持ち始める。当時のアメリカでは、スーザはそれほどまでに影響力を持つ人物のひとりだったのである。

文章:石原勇太郎(音楽学)

 

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